MATT HAIG著 『THE MIDNIGHT LIBRARY』翻訳其の⑬

「でも、それは私の人生じゃない……」「おお、ノラ、それはあなたの人生全部です」「いま私は何をすればいいの?」「あなたは本を開き最初のページに向かう」ノラは言われた通りやった。「オーケー」エルムさんは注意深く正確に言った。「さあ、一行目を読んでみなさい」ノラはページを見つめて読んだ。

彼女はパブから出て涼しい夜気の中へと歩いていった……

ノラは独り十分考える時間があった。「パブ?」そのあと、それは起きていた。本は速い動きで旋回し、間もなく判読不能になった。ノラは自分が弱っていくのを感じた。ノラは知りながら絶対その本を手放さなかった。しかし、ノラがその本を読んでいる人間ではもはやないという瞬間があった。そして、本も図書館も存在しないという結果としての瞬間だけがあった。

             三個の蹄鉄 


ノラは爽やかで澄んだ空気の中に立っていた。しかし、ベッドフォードとは違って、ここでは雨は降っていなかった。

「私はどこにいるの?」ノラは自分に囁きかけた。

緩やかに曲線を描いている道の反対側には古風で趣のある石造りの連棟住宅がわずかばかり並んでいた。田舎の静寂の中へ消えてゆく前に、電気が全部消えた静かな古い家たちが村の端の奥まったところにあった。澄んだ空、点となった星たちの広がり、欠けていく三日月。野の匂い。黄褐色のフクロウたちの二通りのホーホーという鳴き声。そしてまた静寂。大気の中に存在感と力を持っている静寂。

変だ

ノラはベッドフォードにいた。それからあの奇妙な図書館。そして、いま、ノラはきれいな村の道に立っていた。ほとんど身動きもしないで。

道のこちら側の一階の窓からはこがね色の光が漏れていた。ノラは視線を上げて、風の中でそっとキーキー軋む上品に色付けされたパブの看板を見た。注意深くイタリック体の字体で、三個の蹄鉄 と書かれた文字の下に部分的に重なる蹄鉄たちの絵。ノラの目の前には黒板が立っていた。ノラはそれを間近で見て自分の筆跡を確認した。


             三個の蹄鉄

           火曜夜―クイズの夜

              8:30p.m.

     「真の知識はあなたは何も知らないという知の中にある」

         ―ソクラテス(私たちのクイズに負けたあと!!!!)

これは、ノラが連続して四つの感嘆詞を入れたところの人生だった。それはおそらくよりハッピーで神経がはりつめていない人がやったことだった。

前途有望な兆候。

ノラは自分が着ているものを見た。腕の半分まで袖を捲り上げたデニムのシャツ、ジーンズ、くさび型ヒールの靴。それらはどれもノラは現実の世界では着ていなかった。ノラは寒さで鳥肌が立った。明らかにノラは長いこと外用の格好をしていなかった。

ノラの薬指には2個の指輪がはめ込んであった。ノラの古いサファイアの婚約指輪がそこにはあった—1年以上前に震えと涙の中で取り外したのと同じ指輪―代わりに地味な銀の結婚指輪がはめ込んであった。

素晴らしいもの。

ノラは腕時計を身に付けていた。この世界ではデジタルのやつではない。ローマ数字のやつの洗練された細長いアナログ時計。時間はだいたい0時を1分過ぎた頃だった。

どうしてこんなことが起きているの?

ノラの手はこの世界ではよりもっとすべすべしていた。多分、彼女はハンドクリームを使用していた。ノラの爪は透明なつや出しでピカピカに光っていた。左手に見慣れた小さなほくろを見るのは幾分かの慰みだった。

足音が砂利道でザクザクと鳴った。誰かが彼女のほうへ接近していた。1人の男。パブの窓の光とたった1個の街灯の光で識別できる。赤らんだ頬、白髪混じりのディケンズの小説を思わせる頬ひげ、ワックスジャケット。おきな型ビールジョッキが肉体として具現した。

男は注意深い歩き方から見ると少し酔っているようだった。

「こんばんは、ノラ。俺は金曜日に戻るよ。フォークシンガーのために。ダンは言ってたよ、奴はいいやつだって」

           



ゆるゆる警備員日誌

中年の警備員男子です。徒然なるままにケイビな日々を綴ります。

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