MATT HAIG著 『THE MIDNIGHT LIBRARY』翻訳其の⑥

 ノラは首を横に振った。首が外れてほしいと願って。彼女自身の首が外れる。そして、頭が床へころころと転がる。それで、ノラは赤の他人と二度と会話をする必要などなかった。「えーと、時間を無駄にしないで。ティックトック ティックトック」「私は35歳です」ノラはイジーがここにいてくれたらばと願った。イジーは絶対この種のナンセンスを許さなかった。「さあー」「私とジェイクはウサギのようだった。でも私たちは成功した。二つの小さな恐怖。でも、ほら、やるだけの価値はあるでしょ?私はただ完全だと感じる。幾つかの絵をお見せしましょう」「電話のことで……頭が痛いの」

ダンは子供を欲しがっていた。ノラは知らなかった。ノラは母親にはなれないと感じた。さらに深いうつ状態に陥ることへの恐怖。ノラは他人は言うまでもなく、自分自身の面倒を見ることも適わなかった。

「それで、まだベッドフォードにいるの?」「ええ」「あなたは逃げ出したけど」「私は戻ってきました。お母さんが病気だったの」「それは大変だったわね。お母様はいまは大丈夫なの?」「そろそろ行こうかな」「でも、まだ雨が降ってるわ」

ノラは店を出ようとした。ノラは扉だけあれば良いと願った。ノラは全てのコトを過去に置いていって、扉を一つずつ通り抜けていく。

             どうブラックホールであるか

ノラは自然落下の状態にあった。ノラには話し相手はいなかった。ノラの最後の望みは1万マイルのはるか彼方、オーストラリアにいる以前の親友、イジーだった。二人の間の関係は乾ききっていた。

ノラはスマホを取り出し、イジーへ伝言を送った。

イジー、元気にしてる?寂しいわ。お話ができればと思って。X

ノラはさらにXを加えて、メッセージを送った。

すぐに、イジーはメッセージを見た。ノラは三つの点が現れるのを空しく待った。

ノラは映画館の前を通り過ぎた。映画館では新しいライアン・ベイリーの映画が上演されていた。ラスト・チャンス・サルーンというタイトルのおセンチな西部劇もののラブコメ。

ライアン・ベイリーの顔はいつも深い意味ありげなコトを知ってるように思えた。ノラは、テレビのアテネの人たちでライアン・ベイリーが物思いに沈むプラトンを演じるのを見て以来、またインタビューでライアン・ベイリーが哲学を勉強していると言っていたので、ライアン・ベイリーのことが好きだった。ノラは、ウエストハリウッドの熱い湯船から出る蒸気越しにライアン・ベイリーがヘンリー・デイヴィッド・ソローについて深い話をしてるところを想像した。

「自信をもってあなたの夢へと向かってゆきなさい。あなたが想像した人生を生きなさい」ソローは言った。

ソローはノラのお気に入りの思想家だった。でも、誰が真剣に自信をもって夢へと向かってゆくのか?えーと、ソローは別にして。ソローは外の世界との接触を断ち、森で、モノを書いて、薪を割り、釣りをして生活を送った。

でも、おそらく暮らしの方法は、ベッドフォードシャーのベッドフォードの現代の生活よりも2世紀前のマサチューセッツ州のコンコードのほうが簡単だった。

あるいはそうではなかったかもしれない。

多分、ノラはただ本当にそれにうんざりしていた。人生というものに。

たくさんの時間が過ぎ去っていった。ノラは生きる目的、存在する理由が欲しかった。でも、ノラは何も持っていなかった。ノラが二日前にそうしたように、バネルジーさんの薬を貰いにいく小さな目的さえ持っていなかった。ノラはホームレスの人にいくらかのお金をあげようとした。でも、お金を持っていないことに気づいた。

「おい、きみ、元気を出しなよ。それは起きないかもしれない」誰かが言った。

何も起きなかった。ノラはひとり思った。それが全体の問題だった。

    

                反物質

ノラが死のうと決意し、家へ向かって歩き始める5時間前、ノラの手のスマホが震動した。多分、それはイジーだったかもしれない。多分、ラヴィが兄に連絡をとるよう伝えておいた。いいや。

「おお、ごきげんよう、ドリーン」

動揺した声。「君はどこにいたの?」

ノラは完全に忘れていた。「いま何時?」

「マジでひどい日だったよ。とても残念」「我々は君のアパートの前で1時間待った」「レオのお稽古にはまだ間に合います。5分でそちらに行きます」「遅すぎ。レオは3日間父親と一緒」「おお、本当にごめんなさい」

ノラは謝罪の滝だった。ノラは自分に圧倒されていた。「ノラ、正直に言えば、レオは止めることを考えていた」「でも、レオはとても良い生徒です」「レオは本当のところレッスンを楽しんでいた。でも、レオは忙しすぎます。試験、友達、サッカー。何かが犠牲にならざるをえない……」「レオには本物の才能があります。私がいまいましいショパンに夢中にさせてやった。だから、お願い_」深い深いため息。「じゃあーねー、ノラ」

ノラは地面が広がり、自分が岩石圏、マントルの中へと送り込まれるところを想像した。ノラが内部の核、硬い感情のない金属の中へと圧縮されるまで、ノラは止まらない。

                 *

ノラが死のうと決意する5時間前、ノラは初老の隣人、バネルジーさんの家の前を通り過ぎた。

バネルジーさんは84歳だった。バネルジーさんは虚弱だったが、お尻の手術以来、少し動けるようになっていた。「ひどく嫌だよね?」「ええ」ノラは呟いた。バネルジーさんは自分の花壇をちらりと見た。「でも、アイリスが満開です」ノラは紫の花の房を見て、無理に微笑もうとした。ノラは花がどんな慰みを与えてくれるのだろうと思った。

バネルジーさんの眼鏡の向こうの目は疲れ切っていた。バネルジーさんは扉のところにいて、鍵を手探りでさがし回っていた。バネルジーさんには重すぎるように思える買い物袋からは一本の牛乳の瓶が見える。家の外でバネルジーさんの姿を見るのは稀なことだった。ノラがここへ引っ越してきて最初の一ヵ月の間、訪問した家、ノラはオンラインの食料品店を開業するのを手伝ってやった。「おお」バネルジーさんは言った。「良いニュースがある。君はもう私の薬を集めなくていい。薬屋の少年が近くに引っ越してきて、薬を私の家まで届けてくれる」

ノラは返事をしようとしたが、言葉が出てこなかった。ノラは代わりに頷いた。

バネルジーさんは扉を開け、そして閉め、かわいい妻の眠る聖堂へ引き下がろうとした。

以上であった。誰もノラを必要とはしていなかった。ノラは宇宙から必要とはされていなかった。

ノラが一旦アパートの中に入ると、静寂は騒音よりもうるさかった。キャットフードの匂い。ボルテール用の餌の半分食べかけのお椀。

ノラは水と一緒に2錠の抗うつ薬を飲み込んで、残りの薬を見つめて思いを巡らせた。

ノラが死のうと決意する3時間前、ノラの全存在は後悔の念で痛んだ。まるで心の中の絶望がどういうわけであるか彼女の胴体と手足の中にあるかのごとく。まるで絶望がノラの全体に入植したかのごとく。

みんなは自分なしのほうがうまくやってゆけるのだと、それはノラに思い出させた。ブラックホールへ近づけば、その引力があなたをわびしい、暗い現実へと引き込んでゆく。

その考えはやむことのない心の痙攣のようなものだった。不快すぎて我慢のできない、しかし、強すぎて避けることのできないもの。

ノラはSNSに目を通した。ノーメッセージ、ノーコメント、ノーニューフォロワー、友達の要請もなし。ノラは加算された自己憐憫を持った反物質だった。

ノラはインスタグラムへ行った。そして、みんなが自分を除いて、どう生きるかを考え出しているのに気づいた。ノラはもはや本当には必要としていなかったフェイスブックへ計画性のない最新情報を投稿した。

ノラは死のうと決意する2時間前、ワインの瓶を1本開けた。

古い哲学の教科書がノラを見下ろしていた。人生にまだ可能性があった頃の大学時代の幽霊のような服飾品たち。ユッカと3個のごく小さいずんぐりしたサボテンの鉢植え。ノラは植木鉢の中の無感覚な生命体であることのほうが楽ちんなのであると想像した。

ノラは小さな電子ピアノの前に座ったが、何も弾かなかった。ノラはレオの横に座り、レオにショパンの前奏曲のEマイナーを教えているところを想像した。

時間を考慮に入れると、幸せな瞬間は時として痛みへと変わることもある。




ゆるゆる警備員日誌

中年の警備員男子です。徒然なるままにケイビな日々を綴ります。

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