MATT HAIG著 『THE MIDNIGHT LIBRARY』翻訳其の⑫
ノラの母親が結婚式の三カ月前に亡くなったとき、ノラの悲しみは大変大きなものだった。ノラはその日付を戻してみてはどうかと言ったが、それは決してそうはならなかった。ノラの悲しみは気分の落ち込み、不安、自分の人生が制御できてないという感覚で融合していた。結婚式はこの混乱した感覚の大層な徴候のように思われたので、ノラは鉄道の軌道に縛り付けられていると感じた。ノラがそのロープを緩め、自分を解放できる唯一のやり方は結婚式から退散することだった。実際には、ベッドフォードに居て、独身で、オーストラリアの計画のことでイジーを落胆させ、ひも理論で仕事を始め、猫を飼うことになったのは自由の正反対のようなものだったが。
ノラの思考を遮って、エルムさんが「おお、そんなことはありません」と言った。「あなたは大変だったのよ」
そして突然、ノラはこの悔恨すべてをまた感じ始めた。人々と自分自身を落胆させたことのすべての痛み、そしてノラが小一時間ほど前に逃げようとしたことの痛み。後悔はまた再び群がり始めた。実際、後悔の書の開いたページを見つめながら、痛みはベッドフォードを彷徨っていた頃よりもさらに悪くなっていた。同時に書物から出ているすべての後悔の力は苦痛となった。罪悪感、自責の念、悲しみの重量はあまりにも強すぎた。ノラは肘をついて、重い本を落として、両目をギュッと閉じた。ノラは目に見えない手が自分の首を絞めているかのごとく、呼吸困難になった。
「止めさせなさい!」「さあ、本を閉じるのよ」エルムさんは指示を出した。「本を閉じるのよ。目だけじゃない。本も閉じなさい。自分でやるのよ」
ノラは気を失いそうになっていたが、姿勢を正し、手を表紙の上に添えた。本はさらに重くなっていたが、ノラは何とか本を閉じ、安心の溜息を洩らした。
すべての人生はいま始まる
「それで?」エルムさんは両腕を胸の前で組んでいた。エルムさんはノラがいつも知っていたエルムさんと同一人物のように見えたが、彼女の物腰はもうちょっとぶっきらぼうだった。それはいつものエルムさんだったが、またどういうわけかいつものエルムさんではなかった。まったく混乱しちゃう。
「それで、何?」ノラはまだ嘆息して、もはや後悔の激しさを感じていないことに安心して言った。「どの後悔が際立っていますか?どの決定を帳消しにしたいですか?どの生き方を試してみたいですか?」
エルムさんは正確にそう言った、試してみたい、と。あたかもここが洋服屋さんで、ノラがTシャツを選ぶのと同じくらい容易く人生を選べるとでもいうように。それは残酷なゲームのように思われた。「あれは苦痛だった。私は絞殺でもされるような感じだった。この話の要点は何?」
ノラが顔を上げたとき、初めて光の存在に気がついた。普通の類の淡いグレーの天井のように見える天井からぶら下がっているただの裸電球。それが壁には届いていない天井であるということのほかには。ここの床のごとく、天井は永遠の広がりを見せていた。
「話の要点は、あなたの古い人生がすでにもう終わっているという点です。あなたは死にたかった。多分、あなたは死ぬでしょう。そして、あなたはどこかへ行く必要がある。着地すべきどこか。別の人生。それで、あなたは一生懸命考える必要がある。この図書館は真夜中の図書館と呼ばれている。なぜなら、ここで売りに出されているすべての新生活はいま始まるからです。そして、いまは真夜中です。その新生活はいま始まるのです。すべてのこの未来たち。それはここにあるのです。それがあなたの本たちが描いているものなのです。あなたが所有できたであろうすべての別の現在と進行していく未来」
「で、そこには過去はないの?」「ありません。ただ過去の結果ではあるのです。しかし、その本たちはまた書かれてもいるのです。そして私はその本たちのことを全部知っている。でも、あなたが読む本はない」
「そしてそれぞれの人生はいつ終わるの?」
「ほんの数秒かもしれない。あるいは数時間。あるいは数日。あるいは数か月。いや、もっとかもしれない。もし、あなたが本当に生きたい人生を見つけたなら、あなたが年取って死ぬまでその人生を生きる。もしあなたが本当に人生を一生懸命生きたいなら、あなたは心配する必要はない。あなたがいつもそこにいたかのごとく、あなたはそこに留まり続けるでしょう。なぜなら、ひとつの宇宙ではあなたはいつもそこにいたからです。いわば、本は決して返されることはない。貸付金は減り、贈り物は増えるのです。あなたがその人生を欲しいと思った瞬間から、いまあなたの頭の中に存在するものすべて(真夜中の図書館も含めて)は曖昧で触れることのできない記憶となって、存在することをやめるでしょう」
裸電球の光が頭上でちらちらと揺れた。
「唯一の危険は」エルムさんはもっと不吉な感じで話を続けた。「あなたがここにいる時です。生の狭間。もしあなたが進んでいく気力を失えば、それはあなたの根っこの生命―あなたの最初の生命に影響を与えるでしょう。それはこの場所の破壊をもたらすのです。あなたは永遠に消えてしまうでしょう。あなたは死ぬでしょう。そして、真夜中の図書館へのあなたのアクセスも消えてしまうでしょう」
「それが私の求めているものです。私は死にたい。私は死ぬでしょう。なぜなら、私は死にたいから。そんな理由で私は薬物の過剰摂取をやったのです。私は死にたい」
「うーん、あなたは死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。結局、あなたはまだここにいるのです」
ノラはこのことを理解しようと努めた。「それで、どうやって図書館へ戻ったらいいの?私が置いてきた人生より悪い人生の中で身動きがとれなくなったならば、どうすればいいの?」
「それは微妙かも。でも、落胆をめいっぱい感じれば、すぐにあなたはここへ戻ってくるでしょう。時々、その感情はジワジワ上がってきます。そして時々、突然、やって来ます。その感情がやって来ないならば、定義上、あなたは待って、あなたはそこでハッピーでしょう。より分かりやすいということはない。例えば、あなたが違ったようにやっていただろうことを選んでみなさい。私があなたにその本を見つけてあげます。つまり、人生をです」
ノラは黄褐色の床で横になっている後悔の書を見つめた。
ノラは田舎で古風で趣のある小さなパブを持つことを夢見たダンと夜更けまでお喋りをしたことを思い出した。ダンの熱意は感染しやすかったので、ダンの夢はほぼノラの夢ともなった。
「私はダンと別れなければよかった。まだダンとは関係があるけど。ダンと一緒にいなくて、その夢に向かって動かなかったことを私は後悔してる。ダンと一緒の人生はまだあるのかしら?」「もちろんあるわよ」エルムさんは言った。
図書館の本たちが再び動き始めた。あたかも本棚がベルトコンベアであるかのごとく。でも、今度は結婚式の行進ほどのろく動く代わりに、本たちはますます速く動き始めた。一冊、一冊の本と確認できなくなるほどまでに。本たちはただ緑の小川の中をブンブンと音をたてて回転していた。
そして、突然、本たちは動きを止めた。
エルムさんはうずくまって、左側の一番下の棚から一冊の本を抜き取った。その本は濃い色合いの緑だった。エルムさんはその本をノラへ手渡した。その本は大きさは後悔の書と似たような大きさだったが、後悔の書よりはるかに軽かった。またしても、書物の背には題名がなかったが、表紙には、正確にほかの本と同じ色合いで小さな文字が浮き彫りにされていた。
それにはこう書いてあった。私の人生。
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