MATT HAIG著 『THE MIDNIGHT LIBRARY』翻訳其の3
ひも理論
ノラが小さかったころ、ノラの父親はプールの脇に立って、口を真一文字に結んで、ストップウォッチと自己ベストを叩きだそうとする娘にさっと視線を投げていた。ノラは懸命な努力ののち、しばしばノラをうまく処理しようとするあのとっくに消え去った判断の表情のことを思った。ノラは息も切れ切れでひも理論の午後勤務に遅れたものだった。
「ごめんなさい」ノラは薄汚れた窓のないオフィスでニールへ言った。「私の猫が昨夜死んだの。私は猫を埋葬しなくてはいけなかった。えーと、埋葬を手伝ってくれた人がいたの。でも、私はアパートで一人ぼっちで眠れなかった。アラームをセットするのを忘れて、昼まで起きれなかった。そしてあわててここまで走ってきたの」
これは事実だった。ノラは自分の外見ーすっぴんの顔、ゆるめの間に合わせのポニーテール、同じお古のコーデュロイのエプロンドレス(そのどれもが疲れ切った絶望の雰囲気を漂わせている)ーが自分を応援してくれると想像した。
ニールはコンピュータから顔を上げ、椅子の背もたれに寄りかかった。ニールは手と手をすり合わせ、人差し指をとがらせた。そして、ニールはその指を顎に添えた。ニールは遅刻した従業員に対処している楽器店のボスというよりは宇宙について深い哲学的考察をしている孔子のようだった。ニールの後ろの壁には大きなフリートウッド・マックのポスターがあった。ポスターの上部の右隅は壁からはがれ、子犬の耳のように垂れ下がっている。
「いいかい。ノラ。僕は君のことが好きだ」
ニールは無害だった。悪いジョークを飛ばすのが好きで、店内でまずまずの古いボブ・ディランのカバー・ライブを演る50代のギター愛好家だった。
「君がメンタルヘルスの問題を抱えているのは知っている」
「誰もがメンタルヘルスの問題を抱えています」
「僕の言いたいこと分かるだろ」
「だいたい、気分は良くなっています」ノラは嘘を吐いた。「うつ病ではありません。医者は状況のうつ状態だと言ってます。だから、私は新しい状況を迎え入れようとしている。でも、私は病気で休まなかった。お母さんのことは別にして……。それは別にして」
ニールはため息を吐いた。ニールは鼻で口笛を吹くような音を出した。不吉なBフラット。「ノラ、君はここでどれぐらいの期間働いているんだい?」「12年と……」ノラはよく分かっていた。「11ヵ月と3日。働いたり働かなかったり」
「そいつは長い時間だ。君はより良いことにおあつらえ向きだと思う。君は30代後半だ」
「私は35歳です」「君にはやるべきたくさんのことがある。君はいろんな人にピアノを教える……」「1人の人です」
ニールはセーターのパンくずを払った。「君は店で働きながら生まれ故郷で動けなくなっている自分のことを想像したことがあるかい?ねえ、君が14歳だったころは?自分のことをどのように思っていたんだい?」「14歳?水泳選手です」ノラは平泳ぎでは国で一番速く泳げる14歳の少女だった。フリースタイルでは2番目に速く泳げた。ノラは全国水泳選手権の演台に立ったことを覚えていた。「それで、どうなったの?」ノラは目を閉じた。ノラは2位で終わったことの塩素の香り漂う失望を思い出した。「プレッシャーだらけだった」「でも、プレッシャーは私たちを作ります。君は石炭で始まり、プレッシャーは君をダイヤモンドにする」
ノラはニールのダイヤモンドに関する知識を訂正しなかった。石炭とダイヤモンドは両方とも炭素ではあるが、石炭は不純すぎてどんな圧力のもとであろうとダイヤに様変わりすることはできないということをノラはニールに言わなかった。科学によれば、あなたは石炭で始まり、石炭で終わる。多分、それは現実の生活における教訓だった。
ノラは飛び出した真っ黒な髪の部分をなでつけた。
「ニール、何て言ってるの?」
「夢を追求するのに遅すぎるということはない」
「いいえ、遅すぎます」
「君は十分に資格のある人だ。哲学の学士号……」
ノラは左手の小さなほくろを見つめた。そのほくろはノラが経験したすべてのことを経験していた。ほくろは人のことを気にしないでただそこにあった。ただのほくろだった。
「ニール、正直に言えば、ベッドフォードの哲学者にそれほど需要があるわけではない」
「君は大学へ行き、ロンドンで1年過ごし、そして戻ってきた」
「私にはそんなに多くの選択肢はありませんでした」
ノラは死んだ母親のことは話したくなかった。ダンのことも。
なぜなら、ノラが2日の予告で結婚式を辞退したことは、カートとコートニー以来の最も美しいラブストーリーだとニールは考えたから。
「我々全員に選択肢があるんだよ、ノラ。自由意志のようなものはある」
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