MATT HAIG著 『THE MIDNIGHT LIBRARY』の訳を続行する
19年後
扉の男
死のうと決意した27時間前、ノラ・シードはひどく傷んだソファに座って、コンピュータの画面でほかの人たちの幸せな生活の項目をスクロールさせながら何かが起きるのを待っていた。それから、どこからともなく、何かが実際に起きた。
特別の理由が何であれ、誰かが玄関のチャイムを鳴らした。
一瞬、ノラは玄関に行くべきではないと思いを巡らせた。たとえ、夜の9時であろうとノラはすでに寝間着を羽織っていた。ノラは自分の特大のECO WORRIER Tシャツと下の格子じまのパジャマに自意識過剰になりすぎていた。
ノラはスリッパを履き、扉の人物が男であることに気づいた。男は背が高く、ひょろ長くて、ボーイッシュだった。顔つきは親切そうだった。しかし、男の目は、何でも見通せるかのごとくはっきりしていて輝いていた。男に会えたのは良いことかもしれない。少し驚きだが、男はスポーツ用の格好をしていた。男はこの寒い雨天にも関わらず、暑そうで汗ばんでいる様子だった。彼らの間の距離感のためノラは5秒前よりもだらしなく感じた。
しかし、ノラは孤独を感じていた。そして、ノラは実存主義哲学を学んで、孤独であることはこの無意味な世界において実質的な根本原理であるということを知ってはいたが、男に会えたのは幸運なことだった。
「アッシュ」ノラは微笑みながら言った。「アッシュだよね?」
「そのとおり。アッシュよ」「あなたはここで何をしているの?あなたに会えたのは素晴らしい」
数週間前、ノラは電子ピアノを演奏していた。男はバンクロフト・アヴェニューを走っていた。そして、男は窓の中のノラを見て、ちょっと手を振ってみせた。男は数年前、コーヒーでも飲まないかとノラに誘いの言葉をかけたことがあった。多分、もう一度、男は誘いの言葉をかけてくるかもしれない。「君に会えたのも素晴らしい」男は言った。しかし、緊張した額にはその思いが表れていなかった。
ノラがその店で男に話しかけたとき、男は快活な感じで話した。しかし、その声は何か苦しげなヘビーなものを含んでいた。男は眉を掻いた。また何か喋ったが、それは完全な言葉にはならなかった。「あなたは走ってるの?」無意味な質問。男は明らかに走りに出ていた。しかし、男は、一瞬、些細なことを言おうとして安心したようだった。
「うん、僕は今週の日曜日、ベッドフォードのハーフマラソンに出るんだ」
「おお、それは素晴らしい。私もハーフマラソンに出ることを考えていた。でも私は走ることが嫌いなんです」
これはおかしな感じのセリフだった。ノラは走ることを嫌ってさえいなかった。だが、ノラは男の言い回しの真面目さを理解して不安になった。沈黙は気まずさを越えて別の何かに変化した。「君は猫を飼ってると言ったね」男はやっとという感じで言った。
「ええ。私は猫を飼ってます」「名前は覚えてるよ。ボルテールだろ?茶トラ猫の」「ええ。彼のことはボルツと呼んでる。ボルテールはちょっと見栄っ張りの猫です。18世紀のフランスの哲学、文学になるというわけではありませんが。ボルテールはまったく地に足が着いています。分かるでしょ。猫にしては」
アッシュはノラのスリッパを見た。「ボルテールは死んだのではないかと思うんです」「何だって?」「ボルテールは道の脇でじっと横になっています。僕は首輪の名前を確かめた。車にはねられたんじゃないか。気の毒です。ノラ」
ノラはその時、突然の感情のスイッチのことを恐れた。ノラは微笑み続けた。その微笑みはノラを過去の世界にとどめておくかのような微笑みだった。その過去の世界ではボルツはまだ生きていて、ノラがギターの歌の本を売ったこの男が別の理由でチャイムを鳴らしていた。
ノラは思い出した。アッシュは外科医だった。獣医師ではなく、一般の人間を診る医師。もし、アッシュが何かが死んだと言ったのならば、それはすべての可能性において死んでいた。「お気の毒です」
ノラはなじみのある悲しみを感じた。セルトラリンだけが涙をとめてくれた。「おお、何てこと」
ノラはバンクロフト・アヴェニューの濡れてところどころひび割れた舗装路に出て、息もからがら、縁石のそばに横たわっている哀れな茶トラ猫を見た。ボルテールの頭は歩道の脇をかすっていた。ボルテールの脚は中速で想像上の鳥を追いかけるかのごとく後ろ向きになっていた。
「おお、ボルツ。おお。何てことなの」
ノラは自分のネコ科の友達に対して同情と絶望を経験すべきなのは分かっていたーそしてノラは実際にそれを経験していたーしかし、ノラは別の何かを認めなければならなかった。ノラがボルテールの安らかな表情を見たときーそのまったくの痛みの欠如ー闇の中で醸造される逃れがたい感じがあった。
妬み。
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