ハーラン・コーベン著『I will find you』の一部を訳す

 私は自分の子供を殺したため終身刑の5年目を受刑している。ネタバレ注意:子供なんて殺さなかった。私の息子マシューは殺害されたとき3歳だった。マシューは最愛の子で、息子はもういない。私はそれ以来終身刑に服している。込み入った意味でなく。あるいは、私はもっと難しい言葉で説明するべきだろうか。たとえ、私が逮捕されて裁判で有罪になっていなかったとしても、どちらにせよこれは終身刑なのだ。

しかし、私の事例の場合、私の終身刑は込み入ったものであり、文字通りのものなのだ。

はたして、私は無罪になれるだろうか?

そう私は無罪なのだ。

だが、私は私の存在にかけて私の無罪を勝ち取らなかったのか?

いや、そうでもない。あの冤罪を被ったときだと思う。

実際のところ私はそれほど冤罪のことを気にしていなかった。そいつはショッキングかもしれない。でも、違う。私の息子は死んでしまった。そいつは記事の大見出しなのだ。私の息子は死んでしまったのだ。あの女性陪審委員長が有罪を宣告していようと無罪を言い渡していようとその事実に相違はない。有罪であろうと無罪であろうと私は自分の息子を見捨ててしまったのだ。裁判官が真実を見て私を無罪にしていてくれたならば、マシューは死んではいない。父親の仕事は自分の子供を守ることだ。それが何よりも第一である。たとえ、あの5年前の夜、私が、私の美しい息子をぐちゃぐちゃに潰したあの武器を振り下ろさなかったとしても、どうしようもなかったのだ。私は親としての仕事を果たさなかったのだ。私はマシューを守ってやれなかった。

 有罪であろうと無罪であろうと、結局は自分の責任であり、それゆえに私は終身刑を宣告されたのだ。

 裁判官が判決を読み上げたとき、私はほとんど反応しなかった。

もちろん、裁判官、陪審員たちは私が反社会的な人間であり、精神病の傾向があり、幼いころに何らかのトラウマを被ったのではないかと結論付けた。そして、私は犯行時、精神錯乱状態にあったと結論付けた。私は麻痺状態にあった、マスコミはそう主張した。裁判官がどう裁決しようと、私には共感の遺伝子、良心が欠けていた。それのどれもが真実ではなかった。ただ要点がよく分からなかった。私があの夜マーベル・ヒーロー物のパジャマを着たマシューを見つけたとき、私は凄まじい打撃を被ったのであった。その打撃は私をがくんと膝間付かせ、私は立ち上がれなかった。

その時でもない。今でもない。これからずっと先でもない。

隠喩を用いた終身刑が始まった。

もしあなたがこの物語が必死に無罪を証明しようとしている男の物語であると思うのであれば、それは違う。なぜならそれはこれほどの甚大な物語ではないからだ。結局のところ、違いというものは全くない。この独房という不潔な場所から出ることは魂の救済ではない。マシューはもう死んでいるのだ。

魂の救済はこの事件ではありえない。

ないしは、とりわけ風変りなカーリーという名の看守が私の監房に来て、「訪問者だよ」という瞬間まではそれがまさに私の信じているところだった。

自分に話しかけているのではないと思うので私は動かない。



ゆるゆる警備員日誌

中年の警備員男子です。徒然なるままにケイビな日々を綴ります。

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